昭和52年12月09日 朝の御理解



御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」

 天地を一目に見ておるぞ。いつも神様から見られておる自分。それが信じられなければ、本当の信心は出来ないと思う。いつも神様に見られておる。例えば先日二三日前の、御用日誌にこういう、山本先生が奉仕の時に、所管の所にこんな事を書いておる。花から見られておる、最近の私であるように思うとある。花は人間が見るものだと。けれども花から見られておる最近の自分。いうなら親先生に何時も、こう見られておる自分。いうなら、神様から何時も見られておる自分。
 そこに自分というものが。正されなければ居られぬものが生まれてくるんです。そこからいわば信心が出発致しましたら、間違いなく信心が出来ると思います。次にこんな事を書いておる。奉仕を頂くことに、何か私には節がある、という風に感じておる。そこに神様の働きと言うものを、節々にぴしっと頂きとめておる。合楽に修行に参らせて頂いて、一回目はここの月次祭の日であった。二回目の奉仕の時には、合楽に来てちょうど一ヶ月目であった。
 三回目の奉仕の時には、自分のところの教会、いわゆる芦辺教会の大祭の当日であったと。ほんなら例えば月次祭に、何時もあたっておったとか、同じ様な事がたっておったじゃなくて、それが全部違うんです。第一回目はここの月次祭ね。二回目は自分がここへ来て、ちょうど一月目。三回目の奉仕の時には、芦辺教会の御大祭の当日であったと。そしてそれを節があるように思うと言う事は、如何に十日十日言うなら、神様が何時もこう見どおし見ておって下さる、私にかかっておって下さる。
 私を育てて下さろうとする、神様の働きをそこに、ひしひしと感じておる訳ですね。だからそういう頂き方を、いよいよ育てていかなきゃ行けないねと言うて、昨日の研修の時にその話が出ましたんですけれども。頂き止め方がそこに間違いのない神様の働きを、形はいろいろ違ってますけれども、それを神様の働きと見ておる。だから自分の信心の十日十日の、言うならば節のように頂いておる。まぁ十日十日というわけではないですね。自分がちょうど奉仕に当たった日が、そうだとこう言うのです。
 こういう考え方は何時も神様を身近に感じられるですね。なるほど私が花を見ておるけれども、実は花から見られておる私だと言うのです。ままよとは死んでもままよのことぞと。大変厳しいように聞こえますけれども。これは何時もここで言われる、一にも神様二にも神様、三にも神様だよと言うのがそれです。そういうもう、全てが神様を中心にした生き方と言うのです。
 言葉を変えると自分本位の信心ではなく、私がおかげを頂かなければならんから、お参りしておるというのではなく、いつも神様が本位であり、神様が中心であるという信心の生き方なんです。そこには自分の都合なんか、全然出て来ないです。私は確かにそうだと思うです。お徳を受けようと思えばと。ままよという心と言うのはね、そう言う事だと思うのです。ただ自分の都合だけで、例えば信心がなされておると、そんなわけには参りません。だからそれが一生続いても、それがお徳になるとは思われません。
 どこまでも神様が中心。いわゆる神様本位の信心と言う事になるのです。こらもう絶対の私はお徳が受けられると思うですね。神様本位の信心と言うのは。三代金光様のお言葉、私が頂いておるお言葉の中に、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからとあるです。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから、三代金光様が、神様から頂かれた言葉として、伝えておられるのです。
 大坪さんあなたが、神様任せになられたら、神様が大坪さん任せになると言いよりなさるですよと。恐れ入った言葉です。一つ本気で神様任せの生き方、信心を進めなさいよという事なんです。あなたが神様任せになると、神様が大坪さんあなた任せになると仰るですよと。しっかり腹を据えて信心なさいよと言う事です。私共がだから神様を本位にした生き方をすれば、神様が私共本位になって働いてくださると言う事は、もうすでにこれがお徳でなくて、何であろうと思います。
 大坪さんあなたが神様任せになられりゃ、神様が、あなた任せになるち言いよりなさいますよと。これがお徳でなくて、何であろうう。それが徳なんだ。ですから神様任せにならずして、自分本位の信心しておって、お徳が受けられるとは、絶対思われません言葉を変えると、そんなに変わってくる。十分に徳を受けようと思えば、ままよと言う志せよと。ままよとは死んでもままよと言うことぞと。本当に死んでもままよと言う事は、自分と言うものを、何時も空しゅうしておると言う事。
 自分の都合というものを、空しゅうしておると言う事なんだ。私には私の都合がありますというのじゃないわけです。実は昨日は、こうでしたからと言う、良い訳はない訳なんです。私は自分で思いますのに、私は確かにそうした、神様本位で来たように思うし、本当に何時の場合でも、神様任せであったように思います。だから今日神様がなるほど、私任せになって下さってあるなぁと。私があれが要るこれが欲しいと、例えば言葉に出して言わんでも心の中は、神様が見どおしである。
 神は天地を一目に見ておる。それは私共の心の奥の奥まで見てござると言う事なんですよ。ですからなら私があんなもんが欲しいなぁ、こんなもんが欲しいなぁとやっぱ心の底に思っておる。だから私が喜びそうなものを、神様が次から次と限りなく集めて下さるというか、下さる事になるのです。自分の我情で集めるのじゃない。本当に皆さん金光様からお書き下げやら頂くと、大変それこそその家の宝物のように、一遍ほんにお願いして、書いても頂きたいけれども、恐れ多うしてとても申し上げられない。
 いいやきらんどげん思うたっちゃ、金光様一筆書いてくださいとは言えん。心の中にそういうものがありますから、神様がそれこそ書いて下さいと言うてでも、書いて頂けない様なものが、合楽には何点も何点も集まって来るようなもんじゃないでしょうか。大きな額があるかと思うと大きな軸がある。色紙がある。短冊がある。どうしてどういう訳で、集まってくるだろうかと。神様が私任せになっておって下さる姿、それが一事が万事にそうなんです。金光様のお書きになったものだけがじゃないのです。
 神様は天地を一目に見てござるという意味が分かるでしょう。天地を一目に見てござると言う事は、私共の心の底までも、見抜いてござると言うのです。だから私共のいわば、様々な事毎に言うならば、山本先生が言っておりますように、花に見られておる自分を、この頃感ずるとこう言うてある。花は見るものと決まっておる人間が。けれどももし花に命があるとするならです。花が何時も自分を見ておる。
昨日神戸の天野さんという方から、御礼の手紙が来ておる。この頃の記念祭にご参拝のおかげを頂いて、久留米から臨時列車が出るというので、その臨時列車に便乗させて頂くというようなおかげを頂いておる。おかげの泉を読ませて頂いて、おかげを頂きました。合楽理念に、その実行をもって生命とする。マスターする覚えようと言うだけではいけない。その実行をもって生命とする。次に合楽理念の実行的原理は、我情我欲を滅却し我情我欲をなくして、実現されると頂きました。
 しかも合楽理念は、その我情我欲を取り外して行くと言う事をさほど難しいことではない。その気になればなしていけれる、いわば手立てが説いてあるのが、合楽理念であると頂きました。一日も早く合楽理念を、心の中に確立して、神様に喜んで頂けれる私に、ならなければ家族の助かりはないと分らせて頂きました。有り難うございます。と言う事がいわば、本気で合楽理念に取り組もうとしておられる姿勢をね。もう大変な難儀を抱えておられるんです。
 けどもそのことは、まぁだぎすともおかげになるというふうには見えませんけれども。自分の動くところに言うならば、神様の間違いない御守護を受けておる事を、何時の場合も感じますお夢の中に。まぁだここにはそうですね、数で言うて十回か、十四五回ぐらい、まぁだ参っておられないでしょう。けれどもだから真剣です、御理解を頂かれることも、おかげの泉ならおかげの泉を読まれるでも。そしてほんなら合楽理念がマスター出来なければ、私のこの難儀は家族中の助かりにはならないと思う。
 しかもなそうと思えば、なせれる手掛かりが、合楽理念には説いてあると書いてある。例えば私の動くところ、それこそ山本先生じゃないけれども、そこに神様の働きと思わなければおられない節々にです。どうしたことであったかは知らんけれども。こっからまぁ言うなら時間も見らずに帰らせて頂きましたら、臨時列車が出るという。それにまぁ便乗させて頂いて帰ったと。
 そういうおかげをおかげと、神様の働きを働きと感じれれる。そこでほんならば合楽理念に基づいた生き方が、本当に出来なければ私が願っておる、こういう家庭の大きな難儀というものが、解決出来ようとは思われない。本気で合楽理念に取り組みたいという意味だと思うのです。どうでしょう皆さん。おかげおかげを一生懸命、皆さんが例えば願っておられる。願いの信心と言うので願う。
 願わにゃおられんで願っておられるにしましてもです。願うからにはこれが成就しなければ、おかげにゃならんという頂き方が出来ますと、そこに真剣に言うならば、教えを行ずると言う事にも、その手掛かりをいよいよ求めていく。そこにはその前後に神様の働きと言うものを、ピシッと頂きとめることもまた出来る。こういう神様がお働き下さるのですから、こっちがもういよいよ変わりさえすれば、合楽理念を元にした生活が出来さえすれば、おかげは必ず頂けるんだという確信が。
 段々強くなってくる。そこから変わらずにはおられない。そういう信心もですほんならそういう信心もじゃなくて、そういう信心からです、いわゆる神様本位の信心が出来るようになるのじゃないでしょうかね。一目に見てござる。天地を一目に見てござるという事は、花でも私を見ておるのだ。いや私の心の、底の底まで見抜いてござるのが、天地乃神様天地金乃神様だと。
 その神様を知った以上、その神様を芯にしての生き方が信心だと。自分本位であったらそれは言うなら、もう我情我欲のことに終わってしまう感がある。本当いや神の願いを願いとして、願えれると言う事ではなくて、自分の我情我欲を並べて願うと言う事になりかねない。そういういわゆるあの天野さんが言っておられるように、私には合楽理念を元にした生活が出来るようになる時。
 はじめて神様はおかげを下さるんだと、という確信がいよいよ強うなってくるから、いよいよ自分が変わらなければ、いやこう言う場合、合楽理念はどう説いてあるかと言う事を、勉強せずにはおられないことになる。そういう勉強の過程がです場合には。もういよいよ分らない。いよいよ大胆に大胆にと言うよりも、度胸を据えなければ出来ないことがある。そこを死んでもままよという風に言っておられる。
 けれどもこれが自分というものを空しゅうして、一にも神様二にも神様、三にも神様と言う生き方になりゃさほど難しいことではない。神様本位になれば、次には神様が私本位に働いてくださる事実が分りだしたら、もうあなたは徳の世界にあると言う事になる。お徳を頂いておると言う事になる。死んでもままよと言う事は、神様本位の信心を言うのだという風に、今日は聞きいて頂きましたね。
   どうぞ。